岡崎は、伊勢に向かって存在していた
いまの岡崎城の建つ地には、かつて稲前(いなくま)神社が鎮座していました。岡崎はこの稲前神社の神領であり、伊勢の神宮の神領でした。そして三河の國は、神宮最大のおまつり神嘗祭(かんなめさい)に際して、外宮へ懸税(かけちから) ── 初穂の稲束 ── を納めるお役を担っていました。神宮についての最古級の文書に、こう記されています。
神嘗祭 懸税稲 伊賀 尾張 三川 遠江 四国神戸 六十束──『止由氣宮儀式帳』(延暦二十三年・八〇四)
「稲前」というお宮の名は、伊勢に納める稲を、その「前」にまず納め置く神倉だったことに由来すると伝わります。「五万石でも岡崎さまは城の下まで船が着く」── お宮に納められた稲は、すぐ下の船に載せられ、乙川から矢作川を下り、三河湾と伊勢湾を渡って、神宮へ届けられていったのです。
磯部から磯部へ ── 御鍬祭りのはじまり
江戸の半ば、明和四年(一七六七)。志摩磯部の伊雜宮(いざわのみや)で、御鍬に神をお迎えし、その御鍬が運ばれてきた先が、岡崎・岩津の若一王子社でした。伊雜宮は、伊勢の神宮の別宮であり、御田植祭で知られる稲作の聖地です。ここから、御鍬をお祀りして豊年を祈る「御鍬祭り」が三河の國中へ、やがて各地へと広がっていきました。
不思議なことに、御鍬を迎えた岩津のこの地には、つい近年まで「磯部」という地名がありました。つまり ── 伊勢の磯部から、岡崎の磯部へ、神様が運ばれてきたのです。運んだのは、外宮のお膝元・山田の御師(おんし)と呼ばれる神職たち。外宮の神主家である度會(わたらい)氏は、もともと伊雜宮のある磯部の地に連なる一族とされ、外宮と伊雜宮は深い縁で結ばれていました。
岡崎には今も、伊雜宮の分社である御鍬神社が数多く残っています。この町と磯部・伊雜宮とのご縁は、一度きりの出来事ではなく、地名にも社にも刻まれた土地の記憶なのです。
明治への扉は、岡崎で開いた
それから百年。幕末の岩津でふたたび「御鍬百年祭」が始まり、三河の國中が祭り一色に染まりました。その熱のさなか、吉田宿(いまの豊橋)に、空から伊勢外宮の剣祓(けんはらい)のお神札が舞い降ります。続いて内宮、そして伊雜宮のお神札も。人々は「近隣で御鍬祭りが盛んなのに、この村だけがしないことを、神様が徴(しるし)を見せて祭りを促しておられる」と受けとめ、盛大に御鍬祭りを執り行いました。
御鍬様がござったぁ、三百年は大豊年── 御鍬祭りの歌
伊勢の外宮・内宮・伊雜宮の三宮を発端としたこのおまつりのうずは、「ええじゃないか」となって全國に広がり、その勢いは時代を動かして、明治維新へとつながっていきます。時代の扉を開いた大仕掛けの発火点に、岡崎があったのです。
御鍬が届いた社の神は、天御中主神
もうひとつ、見過ごせない符合があります。御鍬が最初に届いた若一王子社の御祭神は、神仏習合の時代には十一面観音菩薩の姿で祀られましたが、神としての本来のお姿は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と伝わります。天の中心にましまして永遠に動かない神 ── 外宮の度會氏が度會神道の中心に据えた、まさにその神様です。
この「中心にして永遠」の道を、江戸の神道家・出口延佳は「中常の道」と呼びました。中常塾の名は、この一語に由来します。御鍬の物語の到着点に中常の神が坐(ま)していたことは、この岡崎に中常塾が開かれたことと、一本の線で結ばれているように思えてなりません。
物語は、いまも続いています
この物語は、過去のものではありません。塾主・松浦茂樹は、太鼓奉納集団・八咫烏(Instagram)を率いる盟友・梁川和基氏とともに、古(いにしえ)の故事に沿い、御神米イセヒカリの懸税を岡崎の稲前神社へ納め、伊勢では外宮の初穂曳きに参加して、神宮最古の文書に残る岡崎三河からの懸税奉納を現代に復活させ、いまも毎年続けています。あわせて、御鍬のふるさとである磯部の伊雜宮へも、調献(ちょうけん)のお納めを重ねています。
この現代の物語の始まりにも、幕末の故事と響き合う一幕があります。御神酒三部作の最初の一本『國靈』となるイセヒカリ ── その始まりの神事は、当時の神田(しんでん)があった吉田の地で執り行われた「お神札(ふだ)降りの儀」でした。かつて吉田に御神札が舞い降りて祭りのうずが起こったように、御神札を天から神田へお迎えする ── それは、現代のええじゃないかの始まりだったと言えます。
磯部から岡崎へ御鍬が運ばれた道を、こんどは岡崎から磯部へ、稲穂とともに辿り返す ── 神代は遠い昔ではなく、今日のこの一日のただ中に在る。岡崎の地に立つと、その言葉が絵空事でないことが、肚の底から分かってきます。