中 = 天御中主神/常 = 国常立尊
- 『中』は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。古事記の冒頭に在(ま)す、天の御中(みなか)=世界の中心の神です。
- 『常』は、国常立尊(くにとこたちのみこと)。日本書紀の冒頭に在す、永遠に立ち続ける神です。
この二神は「同躰異名(どうたいいみょう)」 ── 同じ本質の、別の御名であると説かれます。すなわち中常とは、『中心にして永遠なるもの』を指します。
中常塾では、この二文字をもう一歩ふみこんで、こう定めています。
中常とは、現在即永遠という現実的見地に立脚するもの。── 塾主 松浦茂樹
今というこの一点が、そのまま永遠である ── 昔に戻るのでもなく、いつかを待つのでもなく、いま立っているその場所が足場になります。観念の話ではありません。身体と暮らしで立つ足場の話です。中常塾が講義とお稽古を一組にしているのも、ここに理由があります。
中極の道 ── 中常の道が包含するもの
延佳は、四十五歳の著『中臣祓瑞穂鈔』でこの道を「中極(なかつきはみ)の道」と呼び、七十三歳でその増補『追考 中臣祓瑞穂鈔』を書いたときにも、巻頭近くにこう記しています。
抑(そもそも)、中極の道を神道と云ふ。……心御柱と云ふは、中極の道を以て國土を治め給ふ御心の表示(あらはれ)なり。……百千万の天御中主、合する時はただ一躰の天御中主にて御坐(おはしま)せば、根本は神と人と差別なしと云へども、……この神道は中極の道と云ふ、神明の深秘なり。──『追考 中臣祓瑞穂鈔』(貞享四年)
分かつ時は百千万の天御中主、合わさる時はただ一つの天御中主。ですから根本では、神と人とは分かれていない ── 延佳の言う「中を極める道」を、塾主は、一人ひとりの心の中に鎮まる天御中主を拝みまつることと読んでいます。
「中常の道」と「中極の道」 ── 二つの言い方は、同じ延佳の口から出ています。中常塾では、中常の道は、中極の道を包含するものと捉えています。
中極は中の極みであり、中を極めること。それに加えて、常という永遠性、極まりなさをも表しているのが中常。── 塾主 松浦茂樹
中を極める営みは、中常の道の内にあります。そこに「常」の一字が、極まりなく続く永遠性を添えています。
家の真ん中に一本の大黒柱が通るように、人の心にも、国にも、貫く一本の芯がある ── それが中常の道です。神宮の『心御柱(しんのみはしら)』は、その芯のかたちです。
神代は、今に在る
延佳の小冊子『神代圖鈔』(天和三年)には「神代在今(神代、今に在り)」の語がある、と神道大系の校注者は解題に記しています。神代を昔の事跡としてばかり見る学者を延佳が惜しんだことは、昭和十七年の研究書(江見清風『神道説苑』)も「延佳一代の名言」として引いています。昭和十四年の研究者・宮崎典也は、この延佳の姿勢を「単なる復古思想ではなくて……現在即永遠なる現實的見地に立脚するものである」と見ています。先の定義の一句は、この評の中の言葉を、塾主が中常そのものの定義として採ったものです。
では、常とは何か。塾主、松浦はこう言います。
今を点とするなら、常とはおわらない線。数学に例えるなら、線分ではなく、直線。── 塾主 松浦茂樹
始まりも終わりもない直線には、戻るべき過去も、待つべき未来も、特別な点としては存在しません。どの今も、等しくその線の上にあります。祝詞にいう「中今(なかいま)」も、延佳の「中極」も、この線の内にあります ── 中常の中に中今があるのであって、中今の否定ではありません。中極についても同じです。
神代は、今ここに在ります。中常の道とは、その中心の一本を、日々の暮らしの真ん中に思い出すことです。
黄金に通じる道
五行(ごぎょう・いつつら)では、中央は土にあたり、その色は黄(き)。中を極めることは、黄金(こがね)の輝きに通じます。中常塾が「黄金の國」を願うのも、この道の先にある景色です。
典拠について
- 『神代講述鈔』── 出口延佳 講述・山本廣足 筆録(寛文十二年刊)。「中常ノ道ヲ神道トセルノ深意」の出どころ。塾の所蔵本。
- 『中臣祓瑞穂鈔』(万治二年)・『追考 中臣祓瑞穂鈔』(貞享四年・神道大系 論説編七 所収)── 「中極の道」の出どころ。上の引用は、塾主が原文と読み合わせた箇所です。
- 『神代圖鈔』(天和三年・同 所収)── 「神代在今」。校注者 西川順土の解題(昭和五十七年)によります。「延佳一代の名言」は江見清風『神道説苑』(昭和十七年)。
- 宮崎典也『出口延佳神主傳』(昭和十四年)── 「現在即永遠なる現實的見地」。延佳の原文ではなく、研究者の評です。