中常私塾 中常塾
豐中常文庫 ── 解説

豐宮崎文庫
── 学びの場を、自分たちで建てた話

三百七十余年前の伊勢。神職の中でも高い位ではない人たちが、身分に関わりなく誰でも入れる学びの場をつくりました。その名を豐宮崎文庫(とよみやざきぶんこ)といいます。中常塾の文庫の名は、この場からいただいたものです。

外宮のすぐ隣に、学びの場を建てた

建てたのは、江戸時代初めの伊勢外宮の神主・出口延佳(でぐちのぶよし)(一六一五〜一六九〇)と、その同志たちです。延佳は外宮の権禰宜(ごんねぎ)でした。神職の位でいえば、禰宜(ねぎ)というその上の位に上がれる家の人ではありません。それでも、広く一般の人も使える学びの場を目指して、外宮のすぐ隣に文庫を創設しました。慶安元年(一六四八)のことです。

神道を学ぶ場は、それまで、家ごとに秘されているのが当たり前でした。延佳の姿勢は、そこから外れていました。昭和十七年の研究書は、その立場をこう評しています。

神道は天下の公道にして、巫祝(ふしゅく)の私すべきものに非ず── 江見清風『神道説苑』一八八頁(延佳の立場についての評。延佳自身の原文ではありません)

神道は世の中みんなのものであって、神職が自分たちのものにしてよいものではない ── 文庫という場の形は、この姿勢がそのまま建物になったものだと言えます。

学びの隣に、田んぼがあった

当時の資料を見直していて、気づいたことがありました。文庫のすぐ隣で、御田植神事とお祭りが描かれているのです。

そう思って当時の資料を見直すと、その“豐宮崎文庫”のすぐ隣で“御田植神事”そしてお祭りが描かれているのに気づきました。「そうそう、そうなんだよ!」とひとり膝を打ちました── 山田白魁塾ブログ・二〇二五年一月十五日

本を読んで学ぶことと、田んぼに入って稲を育てること、そして神さまにお供えすること。今の感覚では別々の営みに見えますが、この場では地続きでした。学びが机の上だけで完結せず、田んぼとお祭りへつながっている ── 稲を育て、その稲から御神酒を醸して神さまに捧げるという中常塾の営みは、この形に倣っています。

この文庫の名は、ここからいただきました

この文庫を豐中常文庫(とよなかとこぶんこ)と名づけたのは、豐宮崎文庫に敬意を表してのことです。度會神道の古典を、所蔵する私の手元に留めず、読みたい人の手に届くところへ置く ── その形を、今の道具でもう一度つくろうとしています。

当時のブログには、こう書きました。

今となっては無くなってしまったそんな学びの場を、稲作と御神酒づくりと神様への奉納の活動の中心に置きたいと思っています。……この三河岡崎にてそんな場を創るならば、豐宮崎ならぬ“豐岡崎”かな、なんて妄想するのでした。── 山田白魁塾ブログ・二〇二五年一月十五日

この「妄想」が書かれたのは、三本目の御神酒『中常乃金神』を醸していた冬のことでした。そしてその翌年、岡崎に私塾 中常塾を開くことになりました。

いま、岡崎で

私が中常塾で行っているのは、度會神道の古典を声に出して読み、その意味を学ぶ講義と、和儀®の稽古です。精神性の学びと、身体性の学びを、ひと組にしています。学んだことは机の上で終わらず、稲穂を神宮へ納める懸税(かけちから)の奉納につながっていきます。学びと、稲と、お祭り。三百七十余年前に外宮の隣にあった形を、この三河岡崎で、いまの暮らしの中に置き直したい ── そういう場です。

豐宮崎文庫の建物は今は残っていませんが、伊勢の地には「史蹟 舊豐宮崎文庫」の石標と門が今も立っています。伊勢を訪ねる機会があれば、外宮からほど近いその門の前に立ってみてください。誰かが誰かのために場を建てるという営みが、ずっと昔から繰り返されてきたことが、肚に落ちてきます。

この文庫から、あなたのもとへ。
神代にふれる小さな一節を、日々の便りとしてお届けします。

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