「偽書」と言われるのは、どういうことか
『倭姫命世記』は、度會神道の根本典籍である神道五部書の一つです。学問の世界では、この五部書は奈良時代までさかのぼる書物ではなく、鎌倉時代に伊勢外宮の神主家・度會氏のもとで整えられたものと見るのが一般的です。後の時代の言葉づかいや制度が混じっていることが、その根拠とされます。「偽書」と言われるのは、この年代の話です。
私も、調べものを軽んじてはいません。所蔵している出口延佳校合の寛文九年書写本は、全四十五丁を一字ずつ翻刻し、『度會神道大成』と一句ずつ突き合わせて、読みの違うところに印を付けてあります。写本の画像も翻刻も、この文庫に置いてあります。どの時代に、誰の手で、どう書き写されてきたのか ── そこは丁寧にたどります。
けれど、それは神意を汲む作業ではありません
年代を測ることと、この本に籠められた神のこころを汲むことは、別のことです。学者として分析してやろう、という思いで、神意が酌めるわけがないのです。分析する姿勢のままでは、そもそも神書に向き合っていることになりません。神のこころは何だろうか ── そう思いながら読むとき、はじめて言葉のほうから届いてきます。
私は当時、ブログにこう書きました。
この本は、エビデンスだの時系列だの整合性だのと、目線が学者の目線になってしまうと“偽書”という捉え方になるようです。神書、というものが分からなくなってしまうのでしゃうね。最も大事なものを、失ってしまっているように思います。── 山田白魁塾ブログ・二〇二四年十二月十日
とても残念なことだと、今も思っています。
示されてきたこと
この本には、稲穂を神の御前に懸け奉ること(懸税)と、その穂から清酒を醸して奉ること(御神酒)が記されています。私は、書かれているとおりに稲を育て、神宮へ納め、酒に醸すということを、仲間とともに十年続けてきました。その道中で、次から次へと不思議なご縁が重なっていきます。
その御神酒造りに関わるこのところの神緣によって、この本(倭姫命世記)に書かれているいくつもの事が、正しいことであると示されているからです。── 山田白魁塾ブログ・二〇二四年十二月十日
こちらが証明したのではなく、現実として表され、示されている ── そう受けとめられるのです。日本は古来、神と人とが共にあり、連れ添って歩んできた國です。その歩き方の中に身を置くと、本に書かれていることが、今の田んぼと、今の蔵と、今のお宮で起きることと重なってきます。
すなおなこころを、忘れないように
当時のブログは、こう結んでいます。
“理屈”に目を眩まされて、神さまを純粋に信じるすなおなこころを忘れないようにして下さいね。── 山田白魁塾ブログ・二〇二四年十二月十日
理屈を使うなということではありません。理屈は道具です。道具を握ったまま神さまの前に立つと、いちばん受け取りたいもの、受け取らねばならないものが、受け取れなくなる ── そういうものなのだと思います。それが、神の國日本、なのだと。神代は遠い昔の話ではなく、今日のこの一日のただ中に在ります。その思いで読むとき、この本は今の私たちの在りように直に響いて来るのだと思います。
「偽書」の二文字で本を閉じてしまう前に、どうぞ一度、中の言葉に触れてみてください。写本の画像も、現代語の解説も、この文庫に置いてあります。