江戸の本は、人の手の文字でできている
江戸時代の本の多くは、草書(そうしょ)という崩した書体で書かれています。今の私たちが日常で目にすることは、ほとんどありません。能の謡本(うたいぼん)などで、かろうじて出会うくらいでしょうか。私は、その草書の本で素読をしていて、当時ブログにこう書きました。
現代では能の謡本などでしか目にすることのない、江戸時代の草書の本にての素読。人の書く文字には、活字よりも伝わる何かがあるんですよね。── 山田白魁塾ブログ・二〇二四年十二月二十九日
筆の速さ、墨の濃さ、行のうねり。手で書かれた文字には、書いた人の息づかいが残っています。活字はその息を均(なら)してしまう代わりに、誰にでも読めるようにしてくれる ── どちらが良い悪いではなく、伝わるものが違うと思うのです。
読めない字は、飛ばしてよい
素読(そどく)は、意味を先に取ろうとしないで、まず声に出して読む読み方です。分からない語があっても止まりません。不思議なもので、意味を追いかけるのをやめると、文の調子や息の継ぎ目のほうが先に身体に入ってきます。
草書の本も同じです。読めない字は形として眺めておいて、読める字から声にしていく。何度も通すうちに、同じ崩し方が繰り返されていることに気づきます。そうやって、少しずつ目が慣れていきます。はじめの一回については、素読の最初の一回(古文を読めなくてよい)にも書きました。
三百五十年前の人と、話が合う
そのとき草書で読んでいたのは、出口延佳の本でした。読みながら、こう感じました。
それにしても出口延佳神主、すごくいい事言われてるんだよなぁ。……三五〇〜四〇〇年前の人だけど、話が合うだろうなと思います。師に習いたかったし、これが書かれた江戸時代初期はもちろん、現代にも全く変わらず通じる、『中常(なかとこ)』のこころが説かれています。── 山田白魁塾ブログ・二〇二四年十二月二十九日
「話が合うだろうな」── 古典に対してこういう感想が出てくること自体が、素読の効き目なのだと思っています。研究の対象として遠くから眺めるのではなく、書いた人が目の前にいて、こちらに向かって話している。その距離まで近づけてくれるのが、声と、手の文字です。「中常」という名も、そうして読んだ延佳の一語から来ています。
写本そのものを、開いてみてください
この文庫で書写本の画像をそのまま公開しているのは、この「手の文字で読む」経験を、どなたにもできるようにです。『倭姫命世記』の書写本は、私が所蔵する、出口延佳が校合した寛文九年のもの。翻刻した文字も並べてありますので、読めないところは答えを見ながら進められます。
まずは数行だけでも、声に出してみてください。三百五十年前に筆を持っていた人の息が、今のあなたの息と重なります。